ズートピア2を観れなかった友人へ
※この記事には、自死に関する表現が含まれています。
ズートピア2を観た。差別や植民地主義の問題をエンターテイメントとして描く物語の力に脱帽した。「多様性の尊重」に対する揺り戻しが起こるなか、世界はこれをどう受け止めるのだろう。
ズートピアについて語るとき、思い出す人がいる。彼女がこの世を去って約6年がたつ。ズートピアが好きで、前作が公開された当時「6回も観に行ったよ」とカラカラと笑いながら語っていた、大学時代の友人について。
飄々とした性格
その友人とは、大学時代に学外の性的マイノリティの当事者団体で出会った。彼女は自身のことをアロマンティック・アセクシュアルだと語っていた。
大学が同じであることがわかり、学内でも啓発イベントを主催した際、大きな力になってくれた。デザインが得意で、チラシやパンフレットの制作、イベント当日のスタッフ向けのマニュアルまで率先して作ってくれた。アイデアをまとめ具体化しプロジェクトを進める力に助けられた。
開催費用を手探りでSNSや学内で募ったとき、対面で結構な断り方をされたと語った友人は、「『多様性を尊重しよう』という趣旨自体に異論を唱える人がいることを想定できておらず、傷つく前に驚いた」と、あっさり飄々と語っていた。けれど、そうした人を悪魔化させず、冷静に俯瞰して捉えている姿勢を尊敬した。
文学が好きで、感情や物事の言語化に長けていて、何でも面白がれる人だった。ハリネズミが好きで、ショートヘアーに映えるユニークなピアスをいつもつけていた。ポプテピピックのLINEスタンプをよく使っていて、キレの良いツッコミが多くて、いつも割の良いバイトを探していて、お金が好きで、よく「石油王かレアメタル王と結婚したい」と笑い合っていた。いつも大学の課題に追われていて「やべー」が口癖だった。いろんなコミュニティに参加していて、人に頼られると多く応えようとして、でも頼られすぎて抱え込んでしまう人だった。
女性であること、性的マイノリティであること、ミックスルーツであること、交差する立場から、社会から周縁化されることについて考え、世の中の理不尽に対して怒りを持ちながら、冷静な視点で物事の背景を想像しようとする人だった。
大学卒業後も、しばしばLINEをしたり、飲みに行って近況を報告しあったり、アドバイスをもらったりしていた。数年が経ち、仕事が大変だということは聞いていたけれど、そのことを深堀りすることもなく、徐々に連絡の頻度が減っていった。
6年前の冬の日、その友人からLINEがきた。彼女ではなくお母さんからのメッセージだった。彼女が亡くなったという知らせだった。
居場所
計画的だった。
残された手紙には、亡くなるまでのスケジュールが書かれ、周囲の人たちへの感謝の言葉が綴られていたと伺った。お母さんからLINEで連絡をもらえたのも、関係する人たちに連絡してほしいとお母さんに伝えられていたからだった。
突然の訃報を受け止めるまでに時間がかかった。
LINEやSNSのアカウントはまだスマホの画面にあって、でももうそこにはいないことが理解できなかった。仕事はこなしていたけれど、しばらく疲れやすさを感じるようになった。当時の仲間たちと連絡をとりあって、気持ちを共有できたことは支えになったけれど、「なんで...」という言葉が空中に霧散するばかりだった。
その友人は、就職先では早い段階から仕事を任され、周囲から頼られている様子だったが、仕事を抱えすぎて一度休職していたことを後から聞いた。
残された手紙には、もう十分生きたという趣旨の言葉もあったらしい。この社会に対する諦めというのもあったのかもしれない。この世界に居場所を感じられなかったのかもしれない。
今も残っているTwitterを見ると、大学卒業後、働きはじめて数年が経ったころ、LGBTQ+に関する活動に「久しぶりに参加したいなあ」という投稿があった。「社会的な意味うんぬんではなく(もちろんそれもあるけど)、どちらかというと、自分の居場所を確保するために」と綴られていた。
当時の集まりを、居場所だと感じてくれていたことに嬉しさを感じつつ、他の投稿を見て、LINEのメッセージを見返して、なぜ連絡しなかったんだろうという思いが募る。忙しさにかまけて実現しなかった「飲みに行こうよ」という約束。なぜその瞬間に会う日程を決めなかったんだろう。なぜ。なぜあのときもっと連絡しなかったんだろう。
残った側にあるのは、後悔ばかりだ。「あのときこうしていたら」で変わるのかはわからないし、要因は複雑で、予兆のようなものを察知できるわけではないということもわかる。それでも、あの冷静で飄々とした態度の裏に抱えていたものを考えてしまう。
自分自身も、あまり浮き沈みのない性格だと自分でも認識しているけど、でも、ふといきなり自分がここから消えたらどうなるんだろう、と想像することがある。数年前、がんで亡くなった年上のゲイの友人と闘病中に話す中で、「直接的に死にたいと思っているわけではないけど、これ以上生きて何になるんだろうねという気持ちはどこかにずっとある」という話をしたことを思い出す。わかるなと思う。
ズートピア2のティザーポスター
今年5月。お母さんから納骨についての連絡をいただいた。もう亡くなって5年以上が経つのかと思っていたその翌日、SNSを見ると、ズートピア2のティザーポスターが公開されていた。
偶然とは思えないタイミングだった。
彼女が6回も映画館に足を運ぶほどハマったズートピア。「続編、絶対見ろよ」と知らせたかったのだろうか。「はーー、続編出るんだったらもう少し生きとくべきだったか」とか、LINEが来そうである。
「誰もが何にでもなれる街」に、あなたは何を見出していたのだろうか。
ニックとジュディやその周囲の生き物たちが、違いがあっても--そこには歴然と差別や偏見があっても--それでも共生しようとするユートピアに、希望を感じていたのかな。
ズートピア2は、前作よりもさらに踏み込んでいたよ。権力者が歴史を修正し、先住するマイノリティを敵に仕立て上げ、人々の不安を煽って追い出す植民地主義の問題が描かれていた。
社会の不正義への向き合い方についても描かれていたように思う。命をかけてでも社会を良くしようと行動する信念と、一方で社会はそんな簡単に変わらないというマイノリティだからこそ実感する現実への諦めや、あなたの命の方が大事だという想いとのすれ違いが描かれていた。
お互いの違いに不安を募らせるのではなく、違いを違いとして受け止め、力にしていくことを愚直に提示していた。
怒りを持ちながらいつも冷静な言葉をつむぐあなたは、きっと前作以上に共感するところがあったんじゃないかと思う。
あなたが亡くなって6年。この間、社会は変わってしまった。よくなった面はたしかにあるけど、当時抱いていた未来への希望からすると、よくない方向も多いかもしれない。
ロシアによるウクライナへの侵攻や、イスラエルによるパレスチナへの攻撃、民族浄化。戦争が起き、続いている。ズートピアを作るディズニー自身のスタンスにも批判の目が向けられている。
SNSは異なる立場への想像力を膨らませてくれるツールだと思っていたけれど、そうではないみたい。むしろ違いをめぐって不安を煽る刺激的でインスタントな情報が溢れ、他者と線を引き、自分たちだけの安全を守るために敵を生み出し、排除によって安心を得ようと人々や政治家は躍起になっている。排除によって安全や豊かさが得られるわけでもなければ、次に排除されるのは自分かもしれないのに。
権力者はますます権威的になり、人々もそうした強い象徴を求めている。差別をなくし平等な社会へと向かうのではなく、想像することを止め、開き直り、わかりやすい排除の言葉が響きやすい社会になってしまった。
今の世界をあなたはどう見ているだろう。どんな言葉を語るのだろうか。